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清仏戦争:西仔反印象記

  • 開催日:2024-06-25~2025-05-04
清仏戦争:西仔反印象記

    140年前、フランス政府と清朝がベトナムの帰属をめぐって対立、戦火は海に浮かぶ台湾にも波及、基隆、淡水、澎湖も戦場となったため、台湾全島が貿易封鎖による経済的苦境に陥った。一年以上に及ぶ戦禍、「清仏戦争」のことを台湾人は「西仔反」と呼んだ。「西仔」とは「フランス」のことである。

    本特別展では、10数年来の地方社会研究の成果をもとに、台湾の外交関係のターニングポイントとなったこの戦争について考えてみたい。強国を前にした台湾社会が、どのように組織を動員、団結、北上して侵略に抵抗したのか。フランス軍が残した写真資料や戦記、個人書簡等も用いて、実際の戦場の再現を試みる。

    また、戦争終結後フランスで大量に出版された関連雑誌、書籍、台湾特有の廟宇に寄贈された扁額、壁画、儀式等の記念方法等の考察を通じて、戦争がどのように、公式の歴史、民俗、伝説や記憶の中に留められることになったのかを紹介する。

いわれなく戦争に巻き込まれた台湾

    1884年、フランスとベトナムの軍事的衝突は、黒旗軍の参戦によって膠着状態に陥る。清朝の勢力をベトナムから追い出すために、フランスは台湾の基隆、淡水、澎湖等を軍事攻撃、台湾を和議の際の切り札とすることを考える。

    フランスの台湾周辺における軍事行動は、4段階に分けられる。一、フランス極東艦隊の編成、二、基隆、淡水攻撃、基隆占領、三、台湾海峡封鎖、海域往来船舶の阻止、妨害、四、基隆放棄のアリバイとして澎湖を攻撃。もともと戦争と無関係であった台湾は、いわれなく巻き込まれ、勝敗のカギを握る存在となったのである。このことは戦争の不条理さをよく表している。

2自分の故郷は自分で守る

    「西仔反」の台湾の戦場には、大陸から派遣された湘軍、淮軍の他、台湾各地から集まった義勇軍も参戦した。外国からの侵略に対し、台湾の人々は共同体意識に目覚め、それぞれ武装して戦場に身を投じる。鍵となった各地のリーダーには林朝棟、張李成、姜紹基等がいる。今でも基隆、淡水の廟宇に残されている交趾陶、壁画、扁額には、神様が助太刀してくれたという伝説が描かれている。例えば淡水の魂を祀る儀式「拝門口」、保儀尊王の木柵から淡水への巡礼ルート等は、信仰、人的ネットワークと戦争の集合的記憶が織り重なったものである。

3戦場の実情:一日も早く故郷に帰れることを願って

    フランス軍官André Salles撮影の記録は、台湾史上初めて戦争の経過が記録された写真資料である。同資料と従軍医官助手René Coppin、重要資料であるEugène Germain Garnotの著書『1884~1885年フランス人のフォルモサ遠征』収録の手書き地図や手稿を参照することで、フランス帝国の東アジア勢力拡張の意図を再検討、同時に実際の戦場の様子を紹介する。こうした資料の随所には、飲食、疾病、また19世紀末における台湾の庶民生活が記録されている。戦場から家族への書信、新聞掲載の訃報や行軍記録をまとめた出版物など、様々な記憶、再現資料によって、当時の戦争認識やイメージを浮かび上がらせる。