はじめに
公共テレビの『波の音色(原題「聴海湧」)』は、植民地統治下にあった台湾人が、第二次世界大戦中に戦場に動員される姿を描いたドラマである。物語は台湾籍捕虜監視員である新海志遠を中心に展開される。監視員は日本軍の命令により捕虜の管理を任されるが、日本は軍隊式の捕虜管理を行い、戦況が不利になると捕虜を虐殺する。戦後連合国軍による軍事裁判が始まると、懲役、さらには死刑を宣告される捕虜監視員もいた。植民地下の台湾人の中にも、動員された者、または皇民化教育によって生まれたアイデンティティから自ら「志願」することになった者は、戦時下軍隊の命令とヒューマニティの葛藤に苦しみ、また戦後は軍事裁判に向き合うことを余儀なくされる。新海志遠達は、故郷台湾に帰ることができたのであろうか。
1937年の盧溝橋事件によって日中の全面戦争が始まる。ヨーロッパではナチスドイツを始めとした侵略戦争が展開され、第二次世界大戦が勃発する。1941年末、日本は日中戦争の膠着状態打開、南方の経済資源獲得を目指して、「大東亜共栄圏」によるアジア植民地解放を旗印に、アメリカの真珠湾を奇襲、欧米が統治する東南アジア植民地を攻撃し連合国軍と開戦、東南アジア(南洋)での戦端が切って落とされる、「太平洋戦争」である。
太平洋戦争開戦当初は、日本軍は連戦連勝、東南アジア地域を次々占領していくが、それに伴い欧米の植民者等の捕虜管理が必要となる。日本の植民地であった台湾では、当局が「志願兵」のほか、戦地での管理や労働に従事する軍夫、軍属等といった非軍人を募集、軍属には捕虜監視員も含まれていた。海外各地の戦場に動員された台湾人は、戦争終了後様々な運命をたどることになる。国民党軍に従軍し国共内戦に投入された者、何の援助もない中で自力で台湾に戻った者、捕虜監視員のように捕虜虐待の嫌疑をかけられ連合国軍の審判を受けた者。帰郷、台湾に帰りつくことが彼等台湾人共通の願いとなる。
1.戦争の背景、精神的動員とアイデンティティ
ドラマの主人公新海志遠(原姓は林、従軍後日本式に改名)は、1926年高雄の哨船頭に生まれる。公学校(主に台湾人が学ぶ小学校)を卒業後、1942年に皇民奉公会に参加、1943年に軍属として従軍し、ボルネオの捕虜収容所第五分遣所で捕虜監視員となる。三歳年上の兄新海輝は、日本の正義を疑わない若者として描かれている。
第二次大戦期、台湾総督府は戦争遂行のために、皇民化運動によって精神的にも台湾人を「皇民」にすることを、重要な戦略的目標に定める。全面的な日本語普及はその柱であり、また文化(新聞漢文欄廃止)、宗教(神道信仰、寺廟整理運動)、日本式氏名への改名等も行われる。こうした施策は各組織を通じて推進されるが、1941年以降は皇民奉公会が中心となり、台湾人の「日本人化」が強力に進められる。こうして政府は教育、プロパガンダ、精神動員によって日本の戦争の正当性を宣伝する。それに対する台湾人の反応は、各世代によって様々であった。学校教育の中で皇民化思想に触れた青年世代は、戦争への支持に傾くことが多く、一方で中高年世代には、また別の考えがあったようである。当時の台湾の青年達は、戦時の実際の選択はどうあれ、日本のプロパガンダの影響を色濃く受けていたのである。
2.戦争動員:戦場に向かう台湾人
『波の音色』で描かれる捕虜監視員は、日本軍の中では軍属であり、正規の軍人ではなかったが、軍隊の規範に従って行動させられた。捕虜の監視を命じられた台湾人の中には、日本へのアイデンティティを強く持つ者、あるいは新海志遠のように日本人と同じであることを証明するために従軍した者もいた。それでも、捕虜との触れ合いの中で、人間的な一面も保っていた。劇中では、捕虜収容所の生活から、監視する者と監視される者の関係の微妙な変化が巧みに描かれる。
日中戦争開始後、日本は大量の人員を戦場に投入する。台湾ではまず台湾人の軍夫を募集、軍需物資の輸送等の雑役を担わせる。その後軍属(通訳、捕虜監視員)が占領地の統治に動員される。1941年に太平洋戦争が始まると、「特別志願兵」制度を実施、プロパガンダによって、台湾の若者達の間で従軍志願の機運が醸成され、実際に戦場に赴くこととなる。戦争末期の1945年、台湾でも徴兵制が施行されるが、間もなく戦争は終結、各地に送られた台湾人は、その戦場、身分によって、異なる運命を歩むことになる。
3.終戦と審判
1945年8月に戦争が終結、新海志遠達は捕虜収容所で終戦を迎える。収容所を接収した連合国軍は、壕内に捕虜虐殺の跡を発見、戦犯裁判が開始される。所長室が法廷となり、志遠達も戦犯として裁かれることになる。他の日本人と違い、台湾が中華民国に接収されたことにより、台湾人は戦前の日本人から「中国人」となる。志遠達は再びアイデンティティ転換の問題に直面することとなる。彼等の帰郷は実現するのであろうか。
台湾人の活動地域は日本の戦闘地域、占領地の各地に及んでいた。北は「満洲国」(中国東北部)から南は南洋(東南アジア)まで、各地の戦場で1945年夏の終戦を迎えた台湾人にとって、台湾に帰ることが共通の願いとなる。だが、捕虜監視員のように、戦時中に様々な事情で行った捕虜の虐待によって、戦後の審判を受けて、死刑、懲役刑によって家に帰ることがかなわなかった者もいる。
一方、世代、背景によって、終戦に対する台湾人の態度は異なる。「祖国」の接収を熱烈に歓迎する者、茫然自失とする者、また新政府への期待を抱き、積極的に各種組織に参加して「国語」を学習するが、接収者側の問題、復員後の失業、50年間で生じた中台両岸の文化的な差異によって、台湾人の期待は幻滅に変わる。