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数味食光:台湾飲食記憶特別展

  • 開催日:2025-03-11~2025-11-09
数味食光:台湾飲食記憶特別展

記憶はどのように捕捉され、継承されるのだろうか。そして、どのような記憶が保存、伝承されるのだろうか。国立台湾歴史博物館では、2021年から「国家文化メモリーバンク」の管理を引き継ぎ、運営している。人々の共同執筆によるこのデータベースには個人の記憶や物語が蓄積されており、人々が書き、記録し、アップロードすることで豊富で多様な台湾の文化的景観が構築されている。私たちは、各自の眼に映った世界は、どれもが共有されるべきもので、こうした記憶の断片が我々共同の文化資産となると考えている。 

本展示では、「飲食」を入口として文化の宝庫であるこのデータベースに足を踏み入れてみたい。「食べる」ことを台湾大衆の記憶の扉を開ける鍵とするならば、「15組」のキーワードから、どのような記憶の姿が浮かび上がり、そこから私たちはどのような時代の空気を感じ取ることができるのだろうか。

国家文化メモリーバンクのデジタル資料、博物館や個人、地域が収蔵しているもの、そして、各時代に流行ったものや資料から、台湾の人々の飲食にまつわる記憶の輪郭を描き出した。皆様の記憶と同じであることを願っている。


#よろず屋  #万能 

よろず屋にはどのような記憶があるだろうか。小さなよろず屋は、お菓子や乾物、食材を売るだけでなく、田舎町の何でも屋として、地元の人々の交流の場にもなっている。 

 

#伝統市場  #談判王 

伝統的な市場にはどのような記憶があるだろうか。市場独特のかけ声や値引きの声は、新鮮な食材を知る第一線の情報源だ。 

 

#スーパー#量販店  #文化のショーウィンドウ 

スーパーや量販店にはどのような記憶があるだろうか。1969年、台湾初の大型スーパーがオープンした。清潔さや便利さを売りとし、買い物の習慣や客と店とのやりとりが変わっていった。スーパーは現代化の集合的記憶となり、ときには時代を映す文化のショーウィンドウともなった。 

 

#台湾式レストラン  #日本統治時代#食事は二の次 

日本統治時代の台湾式レストランにまつわる記憶といえばなんだろうか。 17、18世紀のヨーロッパのサロンのように、高級な娯楽の場であり、台湾の有力者たちの社交の場、商談の場、友人や家族と集う場でもあった。「江山楼」、「東薈芳」、「春風楼」、「蓬莱閣」は四大酒楼と呼ばれ、政治家、実業家、財界人、文人たちを魅了した。 

 

#カフェ  #日本統治時代#疑似恋愛 

日本統治時代のカフェにまつわる記憶といえばなんだろうか。カフェはかつて教養のある有力者が女給と疑似恋愛をするために訪れるところだった。 

 

#かき氷屋  #お見合いの聖地 

かき氷屋にまつわる記憶といえばなんだろうか。その昔、ここはかき氷を食べるだけでなく、定番のお見合いの場でもあった。数えきれないほどの男女が、仲人の紹介によって、人生の大きな決定を下したのだった。 

 

#料理一つで自分を語る 

料理はどのような物語を語れるのだろか。料理人たちは味覚を通じて、どのように時間、空間、場所を越えて私たちを旅に連れ出してくれるのだろうか。ルーツをたどり、故郷への思いに沿って、私たちの心の拠り所、アイデンティティを見つけだし、温かい言葉で「私が誰か」を教えてくれる。 

 

#記憶は調味料  #馬祖の味 

食卓の調味料には土地のどのような物語が隠されているのだろうか。土地は食物を豊かにし、食物の背後にある技術、労働、感情をも育む。海に囲まれた馬祖は自然に恵まれた離島で、かつては小エビ漁が盛んだった。小エビは料理の味を引き立たせる調味料というだけでなく、馬祖の人々の集団的記憶であり時代の証人でもある。 

 

#海を渡る  #味覚の変異 

味覚が「海を渡った」とき、そこにどのような新しい味が生まれるのだろうか。どのような味が海を渡って台湾に、あるいは台湾から異国に伝わり、どのように変化し、再構築され、再解釈されたのか、その歴史をたどってみよう。 

 

#伝統的な型  #文化の印章 

伝統的な型にはどのような文化の図譜が込められているのだろうか。ある一つの型から、習俗、や文化が織りなす三千大千世界を見ることはできるだろうか。粿、糕、糖、餅を作る型が、台湾の漢人の習俗や文化の図譜を描き出す。それは印章のように、伝承されてきた命題を結びつけている。 

 

#アメリカ支援の小麦粉  #麺食文化の超展開 

戦後の米国による経済援助は、どのような新しい食生活を生み、台湾の麺文化を形成したのだろうか。1950年代から1960年代にかけて、政府は「米に代えて麺を」との政策 を打ち出し、白米を輸出し外貨を獲得した。人々には米に代えて小麦粉を使用するよう奨励したことで、パン、ケーキ、ビスケットなどの様々な麺食が作られるようになり、台湾初のインスタントラーメン「生力麺」も生まれた。 

 

#中華美食大使  #お母さんたちの料理の先生 

料理番組「傅培梅の時間」はどのような本格的な「中華美食」のイメージを作り上げ、海外の人々にとっての「中国料理」の最初の記憶となったのだろうか。番組は39年続き、傅培梅は4000品以上の料理を披露し、何千人ものお母さんたちの料理の先生的存在となった。みなさんも傅培梅が作った料理を食べたことはなくても、テレビの前で傅培梅の料理を学んだ生徒たちが「見よう見まね」で作った傅培梅の料理を食べたことがあるのではないだろうか。 

 

#民主厨房  #社会運動の美食 

台湾社会の民主化から、どのような象徴的な食の記憶が生み出されたのだろうか。「史明おじさんのカレーライス」、党外運動の「民主ソーセージ」、318公民運動(ひまわり学生運動)の「太陽餅」は、戒厳令時代から権威主義体制が緩み、ソーシャルパワーが爆発し嵐のように巻き起こった台湾民主化の発展過程を象徴している。食は、政治や社会運動参加者のお腹を満たす一方で、民主主義の象徴としての意義も有している。 

 

#国宴料理  #外交イメージ 

国宴料理の移り変わりは、権威主義時代から民主化に向かう台湾の政治的変遷や外交イメージの転変をどのように反映しているのだろうか。国宴とは、国家元首が友好国の元首をもてなす公式の晩餐会、また四年に一度の総統就任晩餐会のことである。蒋介石、蒋経国の時代は、国民党政権が中国の正統政権であることを標榜するものだったが、2000年の陳水扁総統就任時の国宴料理では、庶民化と本土化(台湾化)が強調された。台湾の小吃(シャオチ―)的要素が取り入れられ、タロイモのケーキがエスニシティ―融合の象徴とされた。馬英九総統の国宴においても、庶民化、本土化(台湾化)路線は継承され、台湾各地の農水産食材の使用が重視された。蔡英文総統の時のメニューはシンプルなデザインで、そこには食材の生産履歴が印字されていた。頼清徳総統の就任国宴は、初めて台南で開催され、5大エスニシティ―の特色ある料理を融合したメニューが用意された。 

 

#台湾小吃#庶民のワンコイングルメ  #街角の屋台の味 

台湾の小吃がどのように台湾の庶民の胃袋を満たし、それが人々の美食の記憶となったのだろうか。戦前の台湾で小吃は「点心(軽食)」と呼ばれ、通常の食事と比べ、街角の屋台で売られていた量は多くないが安くておいしく、一日の辛い仕事が終わったあとに一日の仕事の疲れを癒すものだったり、時には子供たちへのご褒美だったりした。近年、夜市が流行り、台湾のあちこちで食べられるようになった夜市の小吃は台湾のソフトパワーの象徴ともなっている。