メインのコンテンツブロックにジャンプします

離人・離島─台湾離島の多様な変貌

  • 開催日:2020-12-28
  • 終了日:2021-08-29

無知なのは私たちの見識の方である。私たちは島民たちに名前などないと思っているが、彼らの名には波のような響きがある。

陳黎『紅頭嶼・一八九七』より

「私は台湾人だ」─この言葉は人々の心を一つにするために使われます。台湾社会では、このことに疑念を差し挟む余地などほぼないように思われますが、「私は台湾人だ」─この言い方は本当に共通の認識とするに足るパワーがあるのでしょうか。台湾本島以外の人々に対しても同様の説得力があるのでしょうか。
台史博の特別展「離人・離島」では、現代社会を生きる私たちが、どのように「台湾」を捉え、定義するべきなのかを中心に考えます。ここで台湾という言葉に鉤括弧を使うのは、歴史的な観点から見ると、「台湾」という概念は常に流動的で不安定な位置にあり、成立しては解体され、また成立しては解体されるという変化を繰り返してきました。今回、私たちはどのように「台湾」を捉え、定義するかを考えますが、政治的空間や経済的空間、文化的空間、社会的空間など、様々な面から考察を巡らしつつ、「台湾」というこの空間を観察し、定義することができるでしょう。この度の特別展では、この「離」という概念を通して、現在の「台湾」の定型化、排他的或いは自主隔離的な思想や、それに関する論述について考え、今日の台湾社会にこれまでとは異なる「離」の状況が長期に渡り発生していることと、その実態及び歴史的な文化現象について再度考察し、そこから更に思索を深めて、改めて「台湾」をイメージし、定義します。
台湾─離島
「離島」という概念はどのようにして形成されたのでしょうか。どこが離島で、どこが本島なのでしょうか。戦後、「中華民国」という概念が台湾本島、澎湖群島、金門島、馬祖島を指すようになったのは、どのような歴史的経緯や時局の変化が反映されたのでしょうか。「断・捨・離」を迫られた「島」に改めて境界が策定されて「離島」となった後、人と人との関係や社会の発展には、どのような変化が生じたのでしょうか。現在の「離」「島」と「離島」が歴史的及び文化的概念に生成した新たな思考を通して、「台湾をどのように捉えるか」を改めて考えることができるでしょう。
離─島の人
台湾とその周囲に位置する離島の歴史的発展を振り返ると、もともとは各島に特有の民族文化や社会が形成されていたことがわかります。海に囲まれた島々は孤立していましたが、海は他地域や外界と島とを結ぶ水路でもありました。近代の国土割譲や境界線の策定など、歴史的な経緯の下、幾つかの島が、一つの政治的共同体に組み込まれる中で次第に「離島」となっていったのです。20世紀以降、台湾は「本島」とみなされるようになりました。馬祖列島と蘭嶼─独自の生活文化と歴史を有するこの二つの島は、「中華民国の来台」により生じた種々の出来事や、地理的位置、本島からの距離のせいで「戦地の前線」となり、「国境地帯」に位置する離島となったのです。馬祖の住民とタオ族の人々は「離島化」されゆく状況下にあって、その環境に順応し、暮らしの中で独特の対応方法や対抗策を実践したのです。?
戦地の前線─馬祖島

1949年に中華民国政府が来台すると、馬祖島は深く結び付いてた福建省から分離されて「台湾と向き合う」ようになり、次第に「台湾化」されていきました。ユーラシア大陸の端に位置する馬祖島は、中華民国の政治的共同体に編入されました。そして、台湾を中心とした中華民国戦地の前線となり、戦火に焼かれた風景や戦地のイメージが馬祖島と強く結び付けられるようになったのです。かつては戦場だった馬祖島ですが、すでにその束縛から解放されたにもかかわらず、今日でもやはり台湾人の多くが「北方の国境付近に位置する離島」というイメージを抱いています。

国境地帯─Ponso no Tao人の島‐蘭嶼

Ponso no Tao島で暮らすタオ族は漁業と農業を生業としています。17世紀、西洋人が太平洋の黒潮が流れる海域を航海する際、必ず通過する場所でした。Ponso no Tao人が台湾と関わりを持ち始めたのは、清朝末期、台湾の恒春県にPonso no Tao島が編入された時からで、漢人はこの島を「紅頭嶼」と名付けました。1947年になると、国民政府により「蘭嶼」という新しい名が与えられました。20世紀の近代国家のシステムが徐々に導入されると、タオ族の暮らしにも変化が生じ、国家のイデオロギー装置や、台湾の漢人を主流とする文化から二重の圧迫を受ける中で、Ponso no Taoの辺境性と離島化現象により、犠牲となった離島‐蘭嶼が生まれたのです。

島内の島
「台湾‐本島」という概念が次第に形成されていく中、島内でも「離島化」現象が生じました。これは台湾社会の発展における不平等や不均質が反映されたものです。本特別展では、環境の孤島、居住地の孤島、疫病による孤島─三つの「離島化」現象から、「離島化」がどのようにして統治者により特定の空間と特定の人々に付与されたのかを考察します。この「離島化」は国内殖民と権力の不平等が反映されたもので、「離島現象」のネガティブとポジティブな意義について考えます。その目的は社会の「均質化」と「隠蔽化」に風穴を開けて「多孔化」へと促し、より多くの「台湾」に関する想像の可能性と議論を導き出すためです。
環境の孤島─高雄市大林蒲

高雄市大林蒲と鳳鼻頭の住民は、大小様々な各種重工業工場が密集する工業地区で長年暮らしています。日常的に工場の煙突や大型トラックに囲まれた、劣悪な環境の中で生活しており、この地域の生活空間はまるで「生活環境の孤島」のようです。私たちは政府による住民移転計画に問題点はないか、住民の理解を得て、その要望が認められているかに注意を払うべきであり、高濃度の汚染が憂慮される産業が住民移転後の土地を引き続き利用するのかについても追求すべきです。それを怠れば、環境汚染が原因で移転を余儀なくされた大林蒲は、決して最後の一つにはならないでしょう。

孤島で暮らす─板橋大観事件

板橋区浮洲仔に位置する大観社区は、もともとは「婦聯一村福利中心」に属する、自治体管理外の眷村でした。1963年、水害を被ったのが原因で、村ごと集団移転することになりましたが、転居する余裕のない住民はそのまま村に留まり、黙認されていました。その後、南部の雲林や彰化から台北まで働きに来た「下港人」の多くが、この地で家を借りて暮らすようになりました。近年は国土の整備や活性化政策も進められており、都市の再開発が進められる中、不法占拠住宅からの強制退去も推進されました。大観社区の住民は国有地を占有している悪者とみなされて、土地管理者退輔会からも家屋の取り壊しと土地の返還を要求され、住民は「地上にある撤去予定の物品」とされたのです。2019年8月1日、大観社区の建物は全て撤去され、政府から補償金を受け取った住民らは各地に追いやられました。

疫病の孤島─ウイルスを根絶?
人々が未知の疾病の恐怖に直面した時、政府による強制的な感染者隔離が、パニックを避ける最良の方法となっているようです。2003年に発生したSARSの流行はまだ記憶に新しく、現在も世界的規模で流行しているCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)により、隔離とはどのようなものなのかを実感させられました。伝染病の蔓延により引き起こされた「隔離」は、私たちの暮らしのどのような部分を変えてしまったのでしょうか。隔離することでウイルスを根絶しようとする時、他の何を失うことになるのでしょうか。この度の新型コロナウイルス感染症の流行による隔離で展開された、新しいかたちの「グローバル」な競合が直面する難題とはどのようなものなのでしょうか。そして、どのような要因が世界を動かす新たな原動力となるのでしょうか。
群島の思い

ある日、父が言った。「夏曼、魚釣りに行っておいで。孫に新鮮な魚を食べさせて、不健康な粉ミルクを飲ませなきゃならない。」

夏曼•藍波安『海の巡礼者』より

「台湾」と「台湾人」に関する思索や論述は統一されたものではありません。私たちは「離島」と「本島」という概念を反転させ、「離」の歴史文化を資源とし、「離」を視点として学びながら、台湾島を中心とした均質な単一思考から脱却して、より広い視野と視点をもって「台湾本島以外」の「群島への思い」に向き合いつつ、大勢の「人々が離れ」去り、「離島」となった歴史と文化的な思考を見つめながら、改めて台湾について考え、台湾を定義したいと考えています。