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世界人としての喜び—台湾文化協会百年特別展

  • 開催日:2021-10-07
  • 開催日:2022-07-24

ある人の世界観の変化は、その人の行動を変え、あるグループの世界観の変化は、一つの国の運命を変えることもあります。

1921年から31年の間、台湾文化協会(文化協会、文協)は多くの社会運動組織の1つでした。会員数は最多でも1,000人あまりで、近代台湾の歴史において最も古い組織でもなく、人数も特別多かったわけでもはありません。しかし、彼らは近代世界の新たな知識を受け入れ、実践する勇気と熱意を持っていました。 彼らは当時400万人近くの台湾人の世界観を変えることで、台湾人全体の運命を転換、それによって世界を覆そうと試みたのです。

蔣渭水は創立当時に「台湾文化協会の歌」でこのように歌いました:
「最後に使命を全うして世界人としての喜びを願う。世界人類万万歳。台湾の名を広めよう。」

彼らの使命は何だったのでしょうか? 実際に何をして、どのような成果を残したのでしょうか? どのような精神を抱いていたのでしょうか?また、 運動に傾注する過程でどのような変化が起こったのでしょうか? 100年後の私たちは、本当に望んだ通りの「世界人としての喜び」を感じているのでしょうか?

その時代を振り返ると、彼らが自覚と夢を追い求めた過程、新世紀の夢さえも見えてきます。

世界を鳥瞰する

1917年、台中に住む16歳の少年謝文達は空を見上げ、米国のスタントパイロットであるアーサー・スミスの飛行パフォーマンスを見ていました。 3年後、彼は日本の飛行学校を卒業し、史上初の台湾出身パイロットとなります。

1920年の8月から10月にかけて、謝文達は台中と台北で訪問飛行を行い、社会の注目を集めました。特に台北医学校と師範学校の生徒たちはこれに心を打たれ、団結、支援の波が広がります。9月23日、「謝文達飛行後援会」には数千人の参加者が集い、台湾有史以来最大規模の青年集会となりました。 10月17日、謝文達は「新高号」に乗り込み、台中で「郷土訪問飛行ショー」を行い、その後「台北練兵場」での飛行ショーのために北上しました。

「台湾文化協会」の設立は、彼の「郷土訪問飛行」1周年の日にあたります。

台湾人の主張

1921年10月17日の午後、台湾文化協会は台北市大稲埕の静修女子学校で創立大会を開催しました。 会員数は1,032名、当日の出席者は300名を超え、大多数は総督府医学専門学校、師範学校、商工学校、工業学校の学生でした。 大会では組織規約を審議して林献堂を総理に推挙し、協理や理事を選出、会員代表のスピーチ後に成立式典を行いました。

台湾各地のエリートを集めたこの組織は多様な主張と目標を掲げますが、それは大きく3つにまとめることができます:教育の普及、台湾独自の文化の確立、世界の変動の中で台湾の使命を全うすること。

組織の発展に伴い、植民地の状況と資本階級による無産者への抑圧に対して、文化協会はどのような態度をとるべきなのか? これが協会内の組織改造、権力移譲が行われる際の核心的な問題となります。

宣伝戦

台湾文化協会の活動によって、「文化的」という言葉が社会一般に知られる形容詞となりました。これは外来政権の統治者に抵抗する政治的傾向であり、一方では新しい思想や概念の推進力ともなりました。台湾総督府と地域社会保守派という二つの対抗勢力に対する「二方面作戦」だったとも言えます。

文化協会の活動は講演会を中心としていますが、他には文化劇と映画放映を組み合わせたものもあります。ある場所で文化協会のイベントが行われたことは、その場所の人々が文化協会の主張に共鳴したこと、そしてそこが「文化的」な地盤の一つとなったことを表わしているといえます。 イベントのテーマは地方の人々が関心を持つイシューに合わせて設定、それが成功すると、次は政治的立場を明確にした組織としての宣伝を行いました。

現存する手書きや活字印刷のチラシや宣言、機関誌の多くは完全なものではなく、時間と場所の関連性さえ追跡することはできません。しかし、その内容を注意深く読み、その文脈を再現することで、新知識を説き、広く影響力を及ぼした文化協会メンバーの姿、そして台湾に寄り添い、世界を変えようとした彼らの声が、我々の心の中に力強く響いて来るのです。

時空の争奪

文化協会のメンバーが進めた各種文化改造運動は、人々の新しい世界観が現実の社会生活の中で実現されるようになることを目指します。それは、心理面での「時空の争奪戦」と呼べるようなものでした。

お廟の門前は台湾社会の生活の結節点であり、重要な出会いの場でもあります。1920年代、文化協会は地方で講演活動を行いましたが、特に廟の門前で開催することを好みました。それは大衆が集まるのに便利であると同時に、伝統的な生活の中に拠点を作り、その固有の生活文化に挑戦することを志向したためです。

新しい市民作り、自分らしく生きる

社会改革は個人の革新の上に進められます。 台湾文化協会は、市民観念の普及を推進しますが、それは植民地体制を動揺させるほどの力は持たなかったものの、各個人の内部や生活実践の変革において、台湾社会に大きな影響を及ぼしました。個人の観念の変革が狂騒の時代を形作り、そして、そのような時代の衝撃が、参加した人や経験した人それぞれに大きな変化をもたらしたのです。

文化協会幹部には、地主、医師、弁護士、商人、学者、技術者、労働者が含まれますが、会員や支持者はさらに各階層に及び、学生、公務員、医師、弁護士、商人、農民なども参加していました。

文化協会の激動の10年間を経て、各領域にまたがる会員たちの学業、職場、家庭、人間関係、そしてライフスタイルの変化は、以下のいくつかのタイプに分けて理解することができます。また、反対者や社会大衆の見方が「新たな自我」の形成を映し出している場合もあります。

前進

台湾の著名作家頼和は文化協会分裂後の機関誌《台湾大衆時報》にある小説を発表しました。作品の概要は以下の通りです。光が全く無い暗闇の中に、母親に見捨てられた2人の子供がいました。彼らは直感を頼りに、手を取り合い、互いを信頼しながら、あてどもなく前進します。障害物や危険を乗り越え、風と雨が奏でる行進曲や、泉と松籟の音を聴きながら前進を続け、疲労と戦いながら橋を渡ります。 ある時、一人が目をそっと開くと、そこに大自然のさまざまな光景が目の前に広がっているような気がしました。そこで彼は力強く前進、「この先に光がある」ことに興奮した彼は、仲間の手を離して前に進み、パートナーを失います。それでも暗闇の中「どこにたどり着くかわからない道」を歩き続けるのです。

歴史の洪水の中で、過去を振り返ってみると、現代の私たちは冷静に彼らがどのような道を歩んだのか見通すことができるかのようですが、当時の人たちにとっては、それは目の前に延々と続く先の見えない道であったことでしょう。文化協会の短い輝きの後、彼らの旅路はその後どのように進んだのでしょうか?

結びの言葉

文化協会の同志達の100年前の進歩的で合理的な主張は、今では当たり前のことだと思われるかもしれません。確かに、 政治参加、男女平等、そして自由恋愛などが普遍的な概念になっているのは事実です。しかし、有力な労働組合、開発のための強制移転反対、高い住宅価格、そして殻のないカタツムリ(家を買う経済力を持たない人のこと)など、当時彼らが注目し、解決を試みた社会問題は、今でも私たちの周りをとり囲んでいます。 総督府独裁政権と植民地教育は姿を消しましたが、もし先人たちが現代の政治的混乱、華美な宗教的儀式、そしてインターネット上の低俗な言論を見たら、おそらく激怒し、力強く批判するに違いありません。

百年の間、物質文明は日進月歩で変化しましたが、今の私たちは、まだ彼らの理想の状態には達していないようです。しかし一方で私たちが情熱を忘れず、好奇心をもって注意深くこの世界に関与し続けるのであれば、世界が私たちの心に入り込むことに喜びを感じることができるでしょう。私たちは百年前の彼らと同じ「幸せな世界人」なのです。