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We Can Help:台湾扶助事業×キリスト教からし種の会特別展

  • 開催日:2022-07-27
  • 開催日:2023-05-28

「Who Can Help?」――2020年4月、新型コロナウィルスが蔓延し、各国が自国の対処に追われていた頃、26,980人の台湾人が15時間以内にクラウドファンディングで目標額を達成、誇りをもって世界に伝えました――「TAIWAN CAN!」。しかし半世紀前までの台湾では、このようなことは想像すらできなかったでしょう。すべての困窮は不幸と見なされ、無言のまま背負うべき運命だったのです。

「あの時代はまるでブラックスボックスのように、情報が入ってくることも外部に伝えることも許されなかった。人々は世界の動向を知ることはもちろん、声を出すことすらできなかった。…あたかも台風の目のような真空地帯だったのだ」。写真集『真空の島・台湾』は、世界から見た戒厳令時代の台湾をこのように形容しています。そのような最中の1940年代末、外国からこのフォルモサ(麗しの島)、台湾にやって来た人々がいました。「真空地帯」と見なされていた時期に、彼らは台湾諸島の最も到達し難い場所へと赴き、助けを必要とする人々に手を差し伸べたのでした。

1950年代、長老派教会のジェームズ・ディクソン牧師とからし種の会の創設者である妻のリリアンの紹介、協力または代理の下、メノナイト、ノルウェーミッション協会、アメリカによる援助、海外盲人協会、ワールド・ビジョン、中国児童基金会(台湾家扶基金会の前身)など世界各地の支援や資源が台湾に入ってくることになりました。その支援団体の多くが台湾に根ざした活動を続け、今や誰もが知る社会救援組織となり、近年は活動を世界にも広げ国際的な支援の一端を担っています。

苦難の中にあった当時を振り返り、台湾の人々に差し伸べられた善意を顧みると共に、他人を助けることの意味を改めて見つめ直し、外部の援助を必要としてきた台湾が、世界に貢献できる力を持つに至るまでの歴史を見ていきます。

セクション1
一日一善!?

台湾の伝統社会における政府運営の養済院や丐院、民間の寄付により設立された育嬰堂などの多くは、寄付された不動産の運用により運営され、地域でも緊急救援時には粥の施し、薬や棺の寄付などの慈善活動が行われてきました。日本統治時代になると、それまでに蓄積された救済事業は学産、罹災、救恤の各基金、または慈恵院などに再編されました。これらの公益組織は当初、植民地政府の「討蕃事業」 において負傷した軍人や警察の救護と救済のために設置され、討伐対象であった先住民社会は文明の改善に向き合う者であり、漢民族社会における救済や負傷者救護の対象ではありませんでした。

セクション2
フォルモサよ、我ら来たり!

18~19世紀の頃、台湾伝統社会における救済事業が民間で発展し続ける中、西洋の宣教師が異なる救助形態を台湾で発展させました。このうち台湾に深遠な影響を与えたのが身体医療と保健衛生の科学的な概念でした。第二次世界大戦後に創設された「からし種の会」は台湾の支援に特化して設立されたキリスト教の救助組織であり、医療、看護及び自立の扶助の考えの下に、大戦後の貧困や病に苦しむ台湾の山地に西洋社会の救いの手を差し伸べました。アメリカの援助を受けていた時期であったこともあり、からし種の会はアメリカからの民間救援物資を山奥まで届け、アメリカと台湾の物資輸送の担い手となりました。こうして、からし種の会は台湾に根を下ろしていきました。

セクション3
救いを求める台湾からの手紙

日本統治時代、リリアン・ディクソン女史は夫ジェームズ・ディクソン牧師とともに、台湾キリスト教長老会の宣教活動のため台湾にやって来ました。戦後、台湾に再び渡った二人は、山地での医療活動に取り組みはじめます。台湾山地の援助仲介と資源統合の役割を担ったディクソン牧師は、キリスト教メノナイトに呼びかけ、共同で山地医療の促進に尽力し、キリスト教山地巡回医療の重要な推進者となりました。また、教育を通じて人材を育成し、月刊誌『山光』 の刊行を通じて山地教会のネットワークをつくると共に、宣教と支援活動を広く伝えました。

リリアンは1951年から故郷に手紙を送り続け、そこに綴られていたのは救いを必要とする台湾についてでした 。賛同者の反響とからし種の会の設立を受け、リリアンが毎月郵送する手紙も作業報告を兼ねるものとなり、1954年に郵送先は25,000人に増加。活動のすべての費用はからし種の会がアメリカやカナダから募った寄付金で賄われ、彼女が確立した支援ネットワークにより、寄付金は台湾400余カ所の山地教会の建設、先住民宣教師の育成、山地での医療活動などに充てられました。

セクション4
一刻も早く速やかに

社会体制から置き去りにされ、多くの命が失われようとしていた中、からし種の会と多数の海外慈善団体が適時に支援の手を差し伸べました。「一刻も早く速やかに」と、リリアンは資金のあても考えないかのように、すべての人々を受け止めようとしました――僻地の肺病患者、地元で暮らせなくなった未婚の母、街角をさまよう貧しい孤児や貧困児、ハンセン病患者、鳥脚病患者。しかも命を救うことだけに留まらず、自立と自信の育成、働き先と教育などにも関心を寄せました。がむしゃらな取り組みで増えた活動もそのうち体系を成し、互いに支え合う存在となりました。半世紀が経ち、からし種の会に残っている補助申請や各種申請書から、反共を掲げ戒厳令が敷かれていた当時、政策の上でも注目されず、メディアにも届かなかった、社会的弱者の苦境を垣間見ることができます。

おわりに――豆粒ほどの小さなこと

「最も助けが必要な場所に行かせて」――1927年のリリアンの言葉です。そして21世紀、921台湾中部大地震後の再建に10年携わったボランティアが言った言葉は「そこへ行く。そこには道がないから」。かつて世界が「真空」と見なした台湾は、今では自分の足でしっかりと立つことができるようになったかのようです。しかし果たしてそうなのでしょうか。

1970年代以降、台湾の福祉政策は軌道に乗り、からし種の会と戦後の扶助組織が取り組んで来た活動も体制の一環となりました。しかし、どの時代にあっても体制外には弱者がおり、社会の発展のひずみに耐えているのです。

体制と主流社会にとっては豆粒ほどの小さなことに、その時々に一つひとつ取り組んでいけば、やがては柔軟で強靱な力となり、助けを必要とする人を受け止め、助けられた人がまた別の人を助けていくようになるのです。自らの両手を差し伸べて初めて、距離の制限と垣根が取り払われ、助けを必要とする人々に、そして台湾の社会全体に、自信と未来へ向かう力を与えることができるのです。