第一次世界大戦終結後、世界では民族自決の波が起こり、台湾でも反植民統治の政治社会運動が展開されます。運動が終盤を迎えるころ、戦後の新興国家、チェコスロヴァキアの旅行家ボフミル・ポシュピシルがユーラシア大陸を横断して1929年に台湾に到達し、植民地政府によって言論の自由が統制されているのを目のあたりにします。ポシュピシルは自由な撮影や行動を制限されながらも、外国人の目から見た植民地台湾の現状を提起するとともに、台湾の政治社会運動家である蔣渭水やエスペラント普及運動の同志とも出会います。当時、ともに世界の弱小民族であった台湾とチェコスロヴァキアの人びとが強権に対抗するために、短いながらも非常に意義のある交流を行ったのです。
1.弱小民族同士の連帯
第一次大戦終結後、米大統領ウィルソンが14か条の平和原則を発表。民族自決、軍縮のほか、世界平和のための国際連盟設立といった国際主義を主張します。そのため大戦後の世界では、反植民地主義の風潮が高まり、民族自決の結果、オーストリア=ハンガリー帝国が解体、チェコスロヴァキアが建国されます。また、東アジアにおいても反植民地の波が起こり、1920年代の台湾でも日本の植民地統治に抵抗する政治社会運動が展開されます。この運動が終焉を迎えようとするころ、ボフミル・ポシュピシルが台湾に到達し、台湾民衆党の蔣渭水らと講演を通じて交流しますが、こうしたことが植民地警察の厳しい監視や制限を受けることになります。ポシュピシルの旅は、弱小民族の連帯と植民地統治の現実を目のあたりにするものとなったのです。
2.世界をまたにかけるチェコスロヴァキアの旅人
チェコのマルコポーロとも呼ばれるボフミル・ポシュピシルは、チェコスロヴァキア第一共和国時代の著名な旅行者、記者で、初めて台湾に来たチェコ出身の旅行者でもありました。冒険好きのポシュピシルは、18歳の時、当時内戦の最中にあったロシアへ人生初の旅に出ます。1926年8月、24歳になったポシュピシルは、服一式、リュックサックとわずかな現金だけを持って世界旅行へと出発します。時折汽車、自動車、馬車、船、馬、象なども利用しながら、そのほとんどを歩いて旅し、砂漠、森林、山脈、河、海を越えて、5年間で16万キロに及ぶ世界旅行を成し遂げました。その足跡は中東、中国、韓国、日本、モンゴル、インドおよび東南アジア諸国、計50か国にも及びます。何千枚もの写真を撮影し、多くの体験を生き生きと記録した手書きの日誌を残しました。ポシュピシル生誕120年の年、子孫がその資料をプラハに寄贈し、忘れられていた旅の記録が、再び人びとに知られることになったのです。
3.植民地政府により「視野」を制限された外国人旅行者
台湾総督府は外国人の言動や写真撮影を厳しく制限しました。ポシュピシルは反植民地主義の立場が鮮明であったため、旅行中は常に警官に監視されていました。当時政府の許可が必要であった先住民居住区域の「蕃地」には入ることができなかったと推測されますが、仮に入れたとしても自由に撮影はできなかったことでしょう。ポシュピシルが残した台湾の写真の多くは、絵葉書や写真帖といった既存の台湾の写真資料を撮影したものと思われますが、それでも、制限された視野の中で、自ら意味のあるものを選択しており、ポシュピシルならではの視点が見られます。
4.同時代に台湾に来た旅行者たち
1920年代前後は、島内外の交通、宿泊施設、治安、衛生条件が改善されたことにより台湾観光の幕開けとなりました。植民地政府は旅行業者の企画を通じて、人気の旅行ルートを作成しました。さまざまな台湾をイメージした旅の素材には植民地統治当局の意図が現れており、こうしたものが外国からの旅行者の台湾イメージを形成することになります。しかし、その一方でポシュピシルを初めとする旅行者たちは、国もバックグランドも立場も異なるため、台湾への見方もそれぞれの視点によるものとなり、こうしたことが独自の台湾のイメージを形成することにもなりました。。