写生とは筆と色彩を用いて、眼前の三次元の景物を平面の二次元に表現する作品である。作品を観る者は、どの時空にいても作品を通じて作者の眼前にある景物を観ることができる。著名な台湾画家である陳澄波は写生を愛したアーティストであった。その作品のほとんどが、描写対象を眼前にして完成されたものであり、また写生の現場で得意げに撮影した写眞も数枚残されている。陳が二二八事件で殺害された後、妻の張捷がこうした作品群をひそかに保管していたのは、陳が生涯をかけて描いた生命の「写生」を、台湾史の証拠として残してくれたかのようである。そこには時代を象徴するような生活にまつわる文物も多く含まれているのである。
本特別展では、「写生」を核心のコンセプトとして、資料やその周辺のメッセージを通じて、張捷、陳澄波の四次元の物語を、三次元の空間である展示場に表現してみたい。二人の生きた足跡を観た来場者には、各自の感性で二人の純眞で生き生きとした息遣いを、また歳月を経て写生によって生まれた時代の風景を感じ取ってほしい。
1. 生命の章
陳澄波は絵画に没頭、芸術普及に尽力するだけでなく、社会一般の世事にも強い関心を持った地方の名士であった。1947年の二二八事件が起こると、嘉義では民衆と軍部の衝突が起こり、一時市内は民衆側によって掌握された。3月11日、陳澄波を含む地方の有力者は軍部との交渉に臨むが、水上飛行場で拘束される。二週間後の3月25日午前、陳や潘木枝医師等四名は、審判もなしに嘉義駅前で銃殺された。
ここでは、陳の芸術生活の始まりに描かれた自画像から、家族や社会への思いが溢れた遺書、妻張捷が秘蔵していた処刑時の服、ガラス乾板、写眞等を展示、その命の重さを感じてもらいたい。
2. 半楼仔の秘密
嘉義の蘭井街と国華街の交わる場所に立つ陳澄波の旧居は、奥行き約2.5メートル、内部に屋根裏部屋(半楼仔)を設えた街屋で、約12坪。その10坪ほどの半楼仔に、張捷が生涯をかけて秘蔵した陳の作品、写眞、書簡、書類や画材が保管されていた。そこには、張の若い時の思い出、家族となった二人の足跡、社会参加に力を注いだ陳の痕跡が残されている。
張捷が1993年に世を去った後は、長男陳重光がその遺志を継いで、二二八事件の名誉回復の時を迎える。だが、長期間の保管によって、作品、資料は虫食い、損傷が激しかった。近年來、専門家の手による修復を経て、徐々に当時の姿を取り戻し、また整理、研究によって、そこに秘められた秘密も解き明かされつつある。
3. スーパー秘蔵家—張捷
陳澄波の妻張捷は、「絵を隠した人」であっただけでなく、家族の思い出にまつわる資料も秘蔵していた。彼女の嫁入り道具、裁縫刺繍品、家族の日用品、生活の品が、半楼仔の片隅に収蔵されていた。整理上手で物を大切にする張の人柄が伝わってくくる。その収蔵対象、数量は、「スーパー秘蔵家」と呼んでも過言ではない。
1899年生まれの張捷は、淸朝時代、日本時代の思想が混在する時代、台湾モダン文化萌芽の時代に育った。彼女個人の所蔵品から、一人の女性の成長、時代の変遷を窺い知ることができる。
4. 私たちの家庭
30年近い婚姻生活は、「張捷が内、陳澄波は外」の形で、芸術に身をささげた家庭を形成していた。日本留学、上海赴任等、各地での写生、イベント開催に奔走していた陳澄波は、絵葉書を子供達に送り、また家族や住まいの姿を作品に残している。こうした作品、書簡は、リアルでぬくもりに満ちたもので、流転の家族の光景、成長や、深い絆が伝わってくる。
5. 街頭の画家
写生を愛した陳澄波にとって、アトリエは街頭であった。張秘蔵の画材を通じて、キャンバスやイーゼルを持って街頭の写生に向かう陳の姿が想像できる。通りすがりの人にまで絵の感想を聞いていた陳の開放的な作風は、直接的に後に続く画家達の芸術への興味を掻き立てたのである。
張秘蔵の陳の写眞や文献からは、画家陳澄波以外の姿も見ることができる。陳は芸術家の団結を呼びかけ、台湾文化全体の発展に尽力、さらに社会全般への関心、情熱をもって、戦後は嘉義市参議院に立候補、政治の世界にも身を投じた。
6. この世界に残したもの
このように芸術を愛した一家は、黙々と、全力で彼らの生きた時代の風景を残してくれた。この展示の主人公である張捷、陳澄波に、メッセージを世界に残そうという意志や決心がなければ、作品や資料、生活の軌跡は散佚、私達はこの芸術一家の物語を知る手立てを失っていただろう。台湾の美術、台湾史を振り返った時、その大事な部分が欠けることになっていたのである。
歴史は、人々が世界に残そうという意志と時局の無情との間で、絶えず転変、蓄積されるものである。できるかできないかという問題はさておき、皆さんは自分や家族、さらにはこの世界のために、何を残そうと考えるだろうか?